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中山信吉
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信吉は、家康の小姓になった後、慶応8年(1603年)に、伏見城に入った盗賊を捕まえました。また、慶応12年(1607年)、駿府城の火災のときに、機転を利かせ家康の第11子頼房の命を救いました。信吉の正直さや人柄から、家康の信任も次第に厚くなっていきました。
 このため、頼房(5歳)が水戸藩を興すとき、家康の数多くの家臣の中から、信頼しえる人物として信吉(当時33歳)が選ばれ、慶長14年(1609年)附家老となりました。
 江戸幕府2代将軍秀忠のときに、家康は将軍家を補佐し、徳川家の血統を維持する目的で、それぞれ9男義直、10男頼宣、11男頼房を始祖とする尾張、紀伊、水戸の三藩をつくりました。これがいわゆる徳川御三家と称される格式高い親藩です。
 そのとき、家康は藩主の補佐役として、有能な信頼しえる家臣を選び、藩の家老に任命しました。これが附家老といわれる役職で、普通の藩の家老とは異なり、大名に準ずる格式が与えられていました。
 頼房が水戸藩を興したのは慶長14年(1609年)で、同時に中山信吉が附家老に任命されました。
 時未だ豊臣家が大阪にあり、徳川政権は磐石とはいえない頃、水戸藩が家康の意図する関東、東北の押さえの拠点として機能するためには、有能な信頼のおける人物を補佐役としてつける必要がありました。それにふさわしい人物として家康の眼鏡にかなったのが中山信吉でした。
 中山信吉が水戸藩の2代目藩主に光圀を推挙したことについて、光圀の没後まもなく家臣によってかかれた伝記「桃源遺事」には、次のように書かれています。

【寛永10年癸酉源威公(頼房)御世継未だ定まらざる以前に大樹(将軍)家光公より上意にて中山備前守丹治信吉水府(水戸)へ下り、御若君方を選び奉るに、長丸の君(光圀の幼名)熨斗(のしあわび)をお取与え備前守を爺と御呼びになられ候、其御気色万人に勝りければ備前守ただちに江府(江戸)へ登り言上を遂げ(家光へ報告)則御世継に定まる。】
kato_nihon.jpghaka.jpg 中山信吉の墓(埼玉県指定・史跡)

一騎当千の勇者中山勘解由家範
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戦国時代末期、豊臣秀吉が小田原城の北条氏を攻めたことは大変よく知られています。その小田原城の出城の1つとして、戦国時代最大の出城であった、北条氏の関東の拠点、八王子城をご存知でしょうか。八王子城の城主は、4代、北条氏政の弟、氏照です。
 小田原城につとめていた氏照にかわって、八王子城を守っていたのが、中山勘解由家範です。
 秀吉の命により、八王子城に総攻撃を仕掛けたのが、前田利家と上杉景勝の大軍です。そして、天正18年(1590年)6月23日前田利家と上杉景勝の全軍が動きました。八王子城は落城し、両軍合わせて多数の死者が出たと言われています。その八王子城を最後まで守ったのが、中山勘解由家範です。馬術や槍の名手で武勇に優れ、過去にも数々の手柄を立てています。

「見事な戦いぶり、一騎当千の勇者だ。死なせてはならない。」

と前田利家、上杉景勝の降伏勧告の使いを家範の下へ向かわせましたが、果敢に身を挺してすばらしい戦いを繰り返した後、覚悟の上、最後のときを知った家範は、妻とともに自害して果ててしまいました。
 6月23日の八王子城陥落の13日後、北条小田原城は、ついに降伏し秀吉の全国制覇がなりました。そのときの中山家範のすばらしい武勇を聞いた徳川家康は、現在の埼玉県飯能市の中山宿に、家臣とともに落ち延びていた家範の二人の子供たちを探し出し、家康の小姓に召し抱えました。家範の長男が照守(当時21歳)で、家康、秀忠によく仕え、大阪冬・夏の陣にも従軍し、功成り家禄を受け、やがて御旗奉行にまで昇進しました。次男が信吉(当時15歳)で、徳川光圀を水戸藩の二代目藩主に選んだ、中山信吉です。

■(写真)能仁寺 中山勘解由3代の墓
(上から家勝、家範、照守の順です。)

中山信正
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 松岡城地が、中山信正に与えられた時期は、信吉が卒去して家督を継いだ寛永19年(1642年)後の天保3年(1646年)頃といわれています。御三家の一つ水戸藩は関東や東北の大名たちへの備えでした。そして、附家老中山家の松岡城は、その最前線にありました。もしも、戦になって攻められたときに、水戸や江戸での戦の準備をするための時間を稼ぐ矢弾よけとして、武勇に優れ信頼のおける附家老、中山家が配置されたものと思われます。他の御三家、尾張藩や紀州藩でも附家老の領地は藩領の一番外側に他藩と接して配置されました。
 水戸藩は御三家の中でも参勤交代がなかったため(定府)、中山氏は、江戸屋敷で附家老の5家を代表して幕府との直接交渉の窓口となり、幕府から江戸屋敷を拝領していました。2代信正は松岡に知行地を賜った人で、テレビの水戸黄門の中山備前守は、この信正、もしくは3代信治がモデルと言われています。出身地の埼玉県飯能市の中山村に、市を開きました。飯能市に中山氏の氏神、丹生明神社を造り、石灯篭を奉納しています。

■(写真)加治神社(旧丹生明神)

武州高麗郡中山
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 中山は、南に名栗川、北は高麗川との間に隆起している台地です。奥田にて多峰主山の尾根と切断され、東方へなだらかな起伏を見せています。朝日山や阿須の台地と、高麗山塊との間に2つの川が東に向かって流れ、その中間に丘陵がうずくまった形をしており、中山という地名がつけられました。
 中山家の系譜によると、宣化天皇の曾孫、多治比古王、その子嶋より出で、奈良朝時代には多くの人材が輩出しています。その中武蔵の国司として最初に任命されたのは、養老3年(719年)多治比縣守(嶋の子)です。弟の廣成は天平10年(738年)武蔵守となり、宇美・門成・石雄・今継(平安時代)其後任ぜられています。これらの人々の子孫が、次第に土着して土豪となり、自己の勢力範囲を保持していました。主として秩父・児玉・入間地方一帯に分布し、高麗郡へ進出したのは基房(秩父)の第5子経家(高麗)で、その子孫が中山氏、高麗氏、加治氏等を称するようになりました。
 中山氏を名乗るようになったのは、経家13代孫とされる家勝のときで、中山郷に住み、在名を姓としました。 飯能市智観寺の東には、南面して中山館址の遺構があり、土塁や堀を廻らして、単郭式の館が設けられ、豪族が居住していました。
 館を中心にして中山の発展の跡をたどってみると、丹生谷津や諏訪沢を水源とする2筋の小川の間に、まず南面して館が出来、ついで家臣団地とも言うべきものが、要衝のところに配置されました。更に家の子、郎党とも見られる農民の家が、大手口に交差する東西の道路に立ち並び、村落としての形態が次第に整えられました。
 中山氏の系譜によると、家勝は上杉方に属し、河越夜戦に負傷した(天文15年)ことや、家範が北条氏政に従軍して各地に転戦した記録があります。
 天正18年7月5日、小田原城落城後(同年6月23日、八王子城落城。中山氏列伝中山勘解由家範参照)、秀吉の命を受け、関東一円は徳川家康の有に帰し、家範の遺児照守・信吉は、ともに召し抱えられ徳川氏に仕えました。信吉は中山の近郷宅貫を采地として与えられました。慶長8年(1603年)伏見城において、刀を盗む賊徒を捕らえて功あり、これによって見出され、後水戸徳川頼房の養育と補佐に当たり、更にその子光圀を水戸家第2代の藩主に推挙しました。

松岡藩
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 松岡藩は、慶長7年(1602年)戸沢政盛が常陸国多賀郡および茨城郡の地で4万石を領したのに始まる。政盛は最初、茨城郡小川城を居城としたが、まもなく多賀郡下手綱の竜子山を修築して松岡城と改称し、ここを本拠とした。
 元和8年(1622年)戸沢氏は、幕府の出羽方面大名統制の強化策のため同国へ配置替えとなり、新庄に移った。旧松岡領の内、南部3万石は水戸領に、北部1万石は赤館(棚倉)領に編入された。
 したがって、松岡城もまた、水戸藩に引き継がれ、まもなく、附家老の中山信正に与えられた。
 信正は、徳川家康からその子頼房に付けられた信吉の子で、水戸藩創設時代の功労者でした。中山家は水戸家の家臣ということにもなるが、その表高は2万石で、幕府から譜代大
名に準ずる待遇を受けていた。そのため、当時としては大名と同一視されるような一面もあった。
 中山家は、信吉の後、この松岡城を居城とするが、宝永4年(1707年)信敏の代に久慈郡太田(常陸太田)に移った。
 その後、水戸藩主治保の弟信敬が中山家を継ぐに及び、享和3年(1803年)再び松岡に復帰して采地を領知と称し、水戸藩の別高として支配し、館周辺も次第に城下町としての形態を整えていった。
 明治元年(1868年)伸徴は、朝廷から藩屏に列せられ、正式に藩として独立したが、やがて版籍奉還となり、同4年7月には廃藩置県を迎え、松岡藩は松岡県になり、のち、茨城県となった。

中山家系図
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